学食で一週間前倒しの年越し蕎麦を食っていた。コンビニで年を越すことになったから、今のうちに済ませておくことにした。厄を払うべく七味を振りかける。蕎麦が赤い。来栖に声を掛けられた。
「明日の、イヴの予定ある?」
「ない」
汁をすする。俺は、来栖の服のセンスが嫌いだった。洗練されているから。彼女はいつも誰かと一緒にいる。笑っている。良い匂いがする。俺はひとりでいる時間の方が多いし眉間から川の字が消えることはないし、さらにはプラスチックが腐ってしまったような悪臭を全身から、特に耳の後ろから撒き散らしている。
住む世界が違う。これは、決して比喩じゃない。
俺は学生街の北側にある昭和後期のボロアパートで四年という歳月を乗り越えようとしている。来栖が住んでいるのは南側の、平成生まれのマンション。エントランスってなんだ。下駄箱でも置いてあるのか。
「うちに来てくれる?」
汁を飲み干した。よいお年を。俺の鼻の下は一ミリも伸びていない。毎年のように血で血を洗うイヴをすごしてきた。もう馴れた。来栖みたいな女が理由もなく俺を誘うわけがない。他にも、いくらでもいる。だけれど、俺は首を横に振らなかった。
「いいよ」
昨日渡された合鍵をみつめる。俺はどうして断らなかったんだろう。部屋に入った。やっぱり、良い匂いがした。
照明のスイッチを探し当てる。円卓の上の、地獄絵図。
「なるほどね」
片っ端から借りてきたと推測されるノート群と一度も開いていない疑惑が残る教科書たちが容赦なく積みあがっていた。ツインタワー。
「ん?」
見覚えのある一冊を、塔が崩壊しないように引き抜く。
俺のノートだった。先週川野に貸した奴だ。あの野郎、人のノートで来栖に貸しを作ったのか。今年も大量のケーキを届けてやろうか。携帯電話が鳴った。来栖だった。
「みた?」
「うん」
「仕事終わったから、今から帰るんだけど」
壁にかかった時計をみる。七時をすぎていた。
「うん」
「あたしが寝たら起こしてほしいの」
吹いた。
「わかった。待ってる」
そういうわけで、今年も雇われた。例年と比べたら、ずっとましな方じゃないだろうか。
息を切らせて帰ってきた来栖は、シャワーに入り、ジャージに着替え、マグカップにそそいだ珈琲を一息で空けた。終わった科目のノートと教科書を床に置いていく。テーブルの上から全てが消え去ったときが彼女の勝利なのだ。俺は平均すると一時間に一度の割合で来栖の肩を叩いた。「起きろ。まだ終わっていない」睨むなよ。
「もういい。ムリ。終わらないし覚えられない」
来栖が初めて弱音を吐いたのは午前一時だった。イヴなんか、とうに終わっている。
「一時間経ったら起こす。試験はあとふたつ。レポートみっつ。いけるよ」
「もういい。帰って。ありがとね。ほんと助かった」
ソファにもたれかかった彼女の髪は枯れているようにみえた。
「起きなかったら犯す」
「好きにすれば? あーもう駄目」
「おやすみ」
起こしたら殴られた。どうして、俺が。来栖は不機嫌全開のまま暗記を再開した。レポートは捨てるらしい。色を仕掛ければ一日二日待ってくれるかもしれない。どうせ終わらない。だったら試験に絞る。来栖の論理は俺には理解できないレベルに進化していた。彼女が独り言と呪詛を吐いている間、俺はずっとパソコンをいじっていた。他には何もすることがなかったから。
「終わった!」
午前四時、固い握手を交わす。
「ありがと。今度絶対お礼するから」
「別にいいし、俺はまだ帰らない」
「今度じゃ駄目? 寝たいよ」
「そういう意味じゃない。三時間経ったら起こす。お前、絶対寝坊するだろ。七時から学校に行くまでの時間は復習」
電気を消した。看守も、今の俺と同じような気持ちなんだろうか。夜勤バイトを続けてきた俺は、夜に少しだけ耐性がある。涙声の、来栖の感謝の言葉には返事をしなかった。俺まで眠ってしまったら間違いなく共倒れになる。俺は、このまま明かそう。振り返ってみる。今年はそれほど悪くない。押入れの中で息を殺さなくても、吹雪を突っ切るようにソリを引かなくても、いいのだから。
約束どおり叩き起こした。寝惚けた来栖に抱きつかれた。「俺だよ。起きろ」来栖は時折奇声を発しながら、それでも一夜漬けの知識を補強していった。
「どうして俺だったんだ? 暇そうだったからか?」
「あたしに甘くないから」
「そっか。んじゃ、帰るわ」
「せっかくのクリスマスに、ごめんね」
「それをいうな。レポートは昼休みにでもプリントアウトしてくれ」
「ん?」
「やっといた」
「え?」
「メリークリスマス」
返事を待たずにドアを閉めた。苦手なんだ。お礼をいわれるのは。来栖は一生懸命だった。マインスイーパに飽きたサンタが代わりにレポートを書いた。ありがちなプレゼントだと、俺は思う。
俺? 俺は駄目だよ。
朽ち果てたペットボトルの匂いがしているようじゃ、全然話にならない。