運動不足が祟るとはまさにこのことだ。
膝とふくらはぎは明日の筋肉痛を完全保証する勢いでミシミシ唸っているし、肺は1ミリグラムでも多く酸素を吸収するべく呼吸を要求するし、急な運動に驚かされた胃袋は不規則に収縮を繰り返している。しかし、今日の昼は奮発して鰻重を食ったので意地でも中身を道路脇に置いて行くにはいかない。
喉元まで酸味が登ってくるのをねじ伏せながら腕時計を見る。7時45分。目的地までの距離と俺が移動しなければならない速度を逆算しようとしたが微塵も頭が働かない。
とにかく、走れ。
コートの裾が膝にまとわりつくのを払いながら足を前に出す。
なんだって今日に限って猫の子一匹歩いてないんだ。
家電でも何でもいいが、機械の故障に遭遇した人物が判で押したように口にするのが「さっきまで動いてたのに」の一言だ。そりゃそうだろう。どんな機械だって壊れるまでは動いてる。当たり前のことを訴えたところで壊れた装置は直らないのだ。
うん、過去に俺が腹の中で悪態をついた皆さん、本当に悪かった。
原因不明のエンジン始動不良が発覚した瞬間、俺も「さっきまで走ってたじゃん……」って力一杯呟いた。
黒いサンタのプレゼントかと思って天を仰いだ。
悪いことは重なるもので、こんな時に限って携帯電話の電池が切れている。
今現在、俺が酸素不足にあえぎながら向かっている先は恋人のアパートで、何故走っているかと云えば約束の時間に遅刻しそうだからだ。奴は柔らかい身体の割に頭の固い女で、無連絡遅刻などしようものならホワイトクリスマスどころかほぼ確実に血の雨が降り注ぐ。
よく考えたら車にエンジンがかからなかった時点で自分の部屋から携帯を充電しつつ詫びの電話を入れ、すぐさまタクシーを呼べば良かったのだ。が、もはや後の祭り。
信号を渡って、右に曲がって、ええと、あとは?
空気抵抗って、こんなに身体にまとわりつくようなもんだったか?
さて、長時間にわたって苦痛に晒されている人体、つまりは疾走中のマラソンランナーや出産中のお母ちゃんなどの脳からはエンドルフィンと呼ばれる脳内麻薬が沸きだして苦痛を和らげようとするそうな。で、苦痛が和らぐところを通り越してなんだか楽しくなって来ちゃう現象を俗に「ランナーズ・ハイ」と、こう呼ぶ。
走り続けるうちに、なんだか根拠のない自信と多幸感がわき上がってくるのはもしかしてこの「ランナーズ・ハイ」なんじゃないだろうか。
只今俺の脳内では、身体のメリハリに至るまで極端にアメリカナイズされた彼女が「まぁマイク、そんなに汗だくになるまで走ってきたの? 好きよ!」と、血の雨ならぬキスの雨を俺にざんざ降りで浴びせかける映像が流れており、顔が意味もなく半笑いになっている。
人気のない夜道を半笑いでひた走る俺の姿は、端から見ると恐らくきっと相当怪しい。
そもそもマイクって誰だ。少なくとも俺の名前じゃない。
喉の粘膜が12月の空気から湿気を奪われ、呼吸に合わせてひっついたり離れたりしている。
約束の1分前、俺はとうとうアパートの入り口にたどり着いていた。
コンクリートの石段を2段飛ばしで駆け上がって部屋の前に立ちチャイムを押す。扉の内側に人の気配がして、チェーンとロックを解除する音。
扉が開くが早いか、俺は暖かな部屋の中に身体を滑り込ませて彼女を抱きしめた。最後の力を振り絞りきった下肢がガクガクと崩れ、寄りかかった俺の体重を受け止めきれない彼女が尻餅をついて仰向けに倒れ、そこに膝の力が抜けて息の整わないままの俺が覆い被さる。
人が見たら押し込み強盗に暴行を受けてるシーンと間違われかねない。
「ちょ、ちょっと、なあに? どうしたの」
「車……故障して……走って、き、た」
組み敷かれた格好の彼女が苦笑する。
「電話くれたら良かったじゃない」
「携帯、電池、きれてた」
言葉が驚くほど要領を得ない。来日2日目の外人タレントだってもうちょっと流暢に日本語を使う。
「ばかね」
彼女が俺の両頬をそっと押さえて苦笑を微笑にクラスチェンジさせた。
「なあ、頼みがある、んだけど」
「なに?」
身体を起こしてコートのポケットを探る。もう段取りなんてどうでもいいや。シャンパンを買うのは忘れたがこっちは忘れてない。
「ちょっ、ちょっと、ベタで申し訳ないんだけどこれをうごうぇぼひゅ」
勢い余って咳き込んだ。肺と胃が同時に悲鳴を上げてる。
「ほら落ち着いて」
俺はあまりの苦痛に涙目になったところから3回深呼吸すると指輪の入った小箱を開いて渡した。
「結婚しよう」
見開いた大きい瞳が手元の箱から目線を俺に移す。
しばし沈黙した後、小さく頷く彼女。
「うん、しよう」
「っっっしゃ!」
俺は達成感に包まれながらダイニングキッチンの中央に大の字になり、天井に向かって拳を突き上げた。
脳内麻薬の効果かプロポーズ承認の喜びか、とにかく最高に幸せだ。全身の痛みも忘れるぐらいに。