バレンタイン・デーこと2月14日に10ヶ月10日を足すと12月24日になると云うのはまことに巧くできていて、私の誕生日がクリスマス・イブであることを教えると必ずある一定の割合で「あー、じゃあバレンタイン辺りにできた子だね」なんてしたり顔で云う男が居る。
私は理系気取りの奴なんて大嫌いだ。
入社1年目、研修の打ち上げの席でその定型句を口にしたのはOA機器研修の講師を担当したハヤシって云う上司で、いいぐあいにお酒が回っていた私はかなり真剣に「こいつをぶん殴るかグラスのビールでもぶっかけるかして就職活動をやり直そうか」と内心考え始めていた。
ふと見ると丁度いい場所に飲みかけのビール。
こいつを顔面にプレゼントしてやれと云う神の啓示を感じた私は早速グラスに手を伸ばしたのだが、それを絶妙のタイミングで私の目先から奪って飲み干し同期の芳本が口を開いた。
「でも平均の妊娠日数って38週間から42週間で、妊娠日数そのものは受胎日の2週間ぐらい前から数え始める筈ですから、ええと……うん、バレンタインにできた子供が産まれるのって10月下旬から11月上旬になるんじゃないですかね?」
奢るでもなく皮肉を言うでもない平坦な口調。
ハヤシは毒気を抜かれ、私は攻撃の動機を根こそぎうち消された。
「あ、ビール空ですね」
微妙に勢いを削がれた私たちの様子に気が付いたのかどうか。芳本はテーブルの空き瓶を束ね持つと次のビールを取りに席を立った。
ハヤシが何か言い訳がましく話しかけるのに適当な相槌を打ちながら、私は芳本の後ろ姿をちらちらと眺めた。
長すぎず短すぎず切ってある髪、目を引くほどセンスに溢れている訳ではないが清潔感は保っているスーツ姿、黒縁の眼鏡。別になんでもない普通の男の子だ。
それが突如、スイッチでも切り替わったみたいに気になるとは何事だろう。
『これが恋!?』なんて色めき立つような性質じゃない筈なんだけど。
打ち上げが締められたあと、店の外では気のあった何人かずつがグループになって2次会の相談をしている。ぐるりと見渡すと芳本は群から離れてそっとタクシーを拾おうとしていた。
誰も気にとめている様子はない。
私は目立たない程度に素早く店の前を離れその後を追うと、タクシーに半身乗り込んでいた芳本を押し込むようにしてそのまま隣に座った。
逃がすか。
「あ、僕帰るんですよ赤井さん。2次会行くなら別の車に……」
芳本が言い終えないうちにタクシーの扉が閉まる。
「もう1件つき合おうよ」
私は断定的にそう云ってタクシーに行き先を告げた。
「でもさあ」
諦めがいいのか付き合いがいいのか押しには弱いのか。
芳本は特に文句を言うでもなく私の誘いに応じた。
「妊娠日数の計算なんてよく知ってるね、芳本君」
「ああ、あれ」
「産科医でも目指してた?」
「まさか」
目元だけで小さく笑った芳本がジントニックを飲み干す。
「前にちょっと調べたことがあって、それで」
「なんでそんなの調べるわけ」
「内緒」
「え、なんで!」
「内緒だから」
説明になってない。
そのあとも何度か食い下がったのだが芳本は笑顔のままのらりくらりと私の質問責めをかわし続け、そしていつの間にか私の記憶は断片的になって、しまいには完全に途切れた。
朝。
映画だと裸の上からシーツだけ纏った女が起きあがって、そこへすかした男がコーヒーを持ってくる場面だが現実は甘くない。
じわりと浸みる頭痛に目を覚ますと、服も化粧もそのままで、鏡を見るのが恐ろしいほどみっともない状態であるのが自覚できる。
ベッドから見下ろすと、芳本が毛布にくるまって床に寝て居るのが見えて、自分の晒したであろう醜態を想像して酒の効力とは違った種類の頭痛に襲われた。
顔と髪だけでもなんとかしないと。素早く洗面台を探し、手早く顔と髪を直す。
納得は行かないがまあ許せるレベルまで見た目が落ち着いたところで芳本を揺り起こした。
「芳本君、芳本君」
「ん、あ、赤井さん起きたんだ」
「うん、迷惑かけたんでしょ……ごめん」
「いや、ただ家が分からなかったから送っていけなくて。何もしてないから安心して下さい」
「服そのままだし、わかる」
むしろしろよ、と云う言葉は飲み込んだ。
私の心中など知る由もない芳本はぽりぽりと頭を掻くと立ち上がった。
「送りましょうか、車だしますよ」
「あ、そこまで迷惑かけちゃあ」
「や、迷惑じゃないんで平気です。ちょっと待って」
芳本が起きあがって洗面台で歯を磨き始める。
「昨日、絡んだでしょ私。途中まで記憶あるんだ……」
「ああ。結局白状させられちゃったなあ、アレ内緒ですよ」
「えええ! 私覚えてないよ! もう1回教えて」
口をすすいだ芳本がちょっと考えて、言った。
「まあ、内緒ってほど大げさな事じゃないんですけどね。……僕、誕生日が10月10日なんですよ」
私と芳本がどちらとも無く顔を見合わせて笑う。
なんだか、こんな始まりも悪くないか、と思えた。